株式会社土肥富は兵庫県加東市に所在します。その歴史は1892年に遡ります。
しかし、播州針の元祖である小寺彦兵衛さんが播磨の国下久米村で、針づくりを始めたのは、1851年嘉永4年でありました。当時、一本一本、ケシケシ、カンカンと将に「手作り」でありました。時代が進むにつれ、釣針の需要が漸増して行きました。
彼より遅れること40年、土肥富の創業者である富太郎は、従来の製法に飽き足らず、常に機械化を考えておりました。幸い多くの優秀な下職を抱えていました。その男達が持てる知恵をしぼり、苦労を重ねて、やっと明治の終わりに近い頃、機械で釣針を作ることに成功しました。機械製釣針の元祖と言われる所以であります。
戦前にも海外への輸出を経験していますが、第二次世界大戦後には、本格的な海外輸出が再開されました。従来の機械生産では対応が困難になり、『質と量』両面から検討を必要とした。二代目社長土肥富誉は、昭和24年(1949年)に、『自動整型機』を開発することに成功した。その後、米国、東南アジア諸国への輸出が好調を維持し、増産に拍車がかかりました。このような状況下、業者がどんどん増えて、業界の秩序を保つ必要が生じて、かかる業界を引率する為に努力をしたのが、土肥富誉でありました。
兵庫県釣針協同組合の理事長を長年務めました。「安かろう、悪かろう」と揶揄された戦後の日本産業界でありましたが、わが業界もその例にもれませんでした。
昭和30~31年には、釣針に『JIS即ち日本工業規格』が設定されて、品質管理が実施されるようになりました。世界への扉が大きく開いたという証明にもなりました。
熱処理の自動化や、高炭素鋼線の大々的な採用により、より良い商品が、より容易く、確保出来るように改善・改革が進みました。その後、薬液による『化学研磨』が導入され、針先の鋭利な釣針が容易に入手出来るようになりました。これを『進化』と呼んでも良いのではないでしょうか。
今、三代目社長土肥芳郎が取り組んでいるテーマは、極大から極小の号数まで、完全自動化で整型が出来るように推し進めています。その結果、より均一な品質の釣針をいつでも、誰でも製造出来るように、なる筈であります。
そして、その根幹をなすのは、画期的な機能を持たせる『NANONENONE方式』と銘打った新形式の熱処理炉を確保出来たことです。
さらに、今、生産性向上をどう実行して行くのか、検討中であります。最近就任した四代目社長土肥正芳が126年の我が伝統を引き継ぐべく、鋭意努力中であります。
ご愛顧をいただいておりますお得意様には、どうかこれからも従前と同様に、ご支援、ご鞭撻をいただけますように、宜しくお願い申しあげます。
敬白
2017年7月1日
株式会社土肥富
代表取締役会長 土肥芳郎
代表取締役社長 土肥正芳